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公演案内

 

 

三島元太郎師インタビュー

令和元年九月定式能の能『海人』について鑑賞のご参考に、今回出演の金春流太鼓方、三島元太郎師の談話を公開します。

またシテ方宝生流、囃子科協議会、養成会の思い出など。

 

今回の能『海人』について

○今回の能は宝生流の『海人 二段返 懐中之舞 クツロギ』ですが。

「小書を並べすぎなんだよなぁ。」

○(笑)そう仰らずに。

「二段返だけでも大変なんですよ。

二段返というのは、海人と当麻にあるでしょう。文章からいえば、当麻だったら阿弥陀経の世界というのか、海人は法華経ですよね。共通しているのは浄土の世界を表すんだと思うんですよ。そこへ引かれてやってくると。

それは二段返でなくてもそうなんですけれども、強調するんでしょうね。緩急をつけて、世界を作って。

具体的に言えば、越之段からぐーっと浄土の世界に入る。それからまた、シテがやってくる状態に戻すわけですよね。だから、大小太鼓がやっている間が、一つの世界ではないですか。おシテが謡いだしたらあくまで海人の能ですから。」

○宝生流の懐中之舞は橋姫の面をつけることが多いようですが、やはり強いということでしょうか。

「そうなりますね。」

○懐中之舞は最後に経を渡しに行くところで勢いがカカリますね。

「なぜカカルのか、という根拠がね、ただ早くするというのではないと思うけれど。なんと言うのか、さーっと一気にお経を渡しに行くという気持ちですかね。

○宝生流では海人をクツロギにするのは今までまずなかったそうなんですが。

「クツロギにすると、舞を楽しむ感じになりますからね。あまり遊ばないようにしないといけない(笑)。」

○海人のように謡掛ケの物と、普通にコイ合になるものと出端を打つ気分は変わりますか。

「そういうことはありません。僕らの心得としては出端の位なんかは後の謡を考えながら作るんです。そうすると大体把握できるというのか。修羅物の通盛・実盛・朝長なんかでも、登場人物の年齢なんかも考えますけども。」

 

金春惣右衛門先生のお稽古

○先生の二段返の初演は大阪で、観世寿夫先生の当麻ですね。

「そのまえに稽古能ではやってますね。やはり青山で。本番は私ではないけれど前哨戦でやらせてもらったんじゃないかな。」

○その時の金春惣右衛門先生のお稽古というのは。

「いや、私の場合はね、なにかやるから稽古をしてもらうというのは原則ないんです。聞いて覚えろという。」

○でも二段返などはあまり出ませんよね。

「まず手附はありますよね、後は聞いたことがあるかというと、あると。

先生に前に座って頂いてというのはないんです。それは何に関してもないですよ。あとはどこかでやっているのを聞いてくださるという。それが原則なんです。

ご自分もそうだった、というのもありますよね。先代が早く亡くなられたから。先輩方とお相手された中で感得されたと思います。」

 

東京と大阪 小鼓方のこと

○先生は大阪ご出身で、東京で修業されたわけですが、その違いというので困られたことはありませんか。

「どっちかと言ったらぼくも東京ですからね。あんまり知らないで東京へ来てしまっているから、師匠が「なんだお前、何も知らないじゃないか』とあきれたというようなね。

違いは確かにありますよ。私が、というのでなくておシテ方でもね。

金春流も、家元は苦労されたんです。『田舎から出てきた』とか言われてね。それまではみんな桜間さんなんだよね。

それを本田秀男さんが非常に家元をたてて、一緒に研究会をしたりやってきたんですね。本田さんに梅村平史郎さん。野村保さん。

あとは家元についてきた高橋汎さん、非常に頭のいい方だったから家元を一生懸命助けて築いてきたわけです。

あなた方が小鼓方だから言いますが、大倉流も北村一郎さんと大倉長十郎さんで手配りも違ったりしましたからね。だけと寿夫さんが長十郎さんのことを『なんとか言ったって、あの長さんのポだよ』と仰っていた。私もそう思った。例えばあの方の一声の打ち出しの『ポ』なんか素晴らしかった。重い曲なんかでね、存在感があった。

幸先生、北村先生、あのお二人は素晴らしい調子だけれど、あまり鳴らすことにこだわらない人も多かった。つまりね、基本的に昔の人は合わせるってことをしない、気迫なんだよね。そこに生命があって、鳴らそうというのは気が抜けるという考えがあったんじゃないかな。間とコミと打ち込み。たとえば幸円次郎先生の素晴らしい打ち込み、早舞なんかお相手して気持ちが良かったな。

逸話がありますね、明治の幸清次郎という人が、近くで聞いているとひどい音だけれど、遠くだと素晴らしい音だったという。遠音が効くという話。」

 

二段返の披キ

○二段返を大阪でなさった時のお話を。

「当麻ですが、まあとにかくやったわけです。」

○後の人から見ると観世寿夫先生というのは伝説上の人物のようなところがありますが。

「僕らにとってもそうですよ、おおいに尊敬していましたから。教わるような形でやったんですよね。「三十年のちにまたやろうね」と仰ってたんですがね、私には。

シテ方でもね、どこで幕を上げるかとか色々考えられるらしい。越之段でもう座って聞いているとか、いろいろ書いたものがあるんですよ。どういう演出でやるのか。

笛が吹き出すタイミングがまた難しいんだ、幕上げの唱歌ね。観世流の太鼓とまるで違いますからね、よく分からない。その時も議論がありましたけどね。」

 

日記について

○日記はいつから付けていらっしゃるんでしょうか。

「いつからかな、ノートにちょこちょこ付けています。ぽかーんと六か月くらい空いて、急に年が明けたりね(笑)。

舞台の記録は柿本先生に言われたんです。『記録を書きなさい』と。あの方みたいにいちいち書いて別にはしてないですが、ボヤキも何もみな一緒に書いてある。

二十歳くらいからかな、三十を過ぎたころからはずーっと書いてます。」

○貴重な記録ですね。

「みっともなくて見せられない。(笑)オフレコばかり。

柿本豊次先生は、きちーっと舞台のことだけ書いておられた。それは今預かってますけども。柿本先生の記録は便利ですよ。この曲はどうだったかなというときなんかね。

マメだったのは亀井俊雄先生。目の前でね、小さい字で書いておられた。」

 

柿本豊次先生

○柿本先生からは差し向かいでお稽古があったんでしょうか。

「何曲かは見ていただいてます。はっきり覚えているのは乱。テクニックというのか撥扱い。イロエ地でも、はずむんだ、というような単純なことじゃなく、息の使い方が違わないと。

それから、乱に限らず刻ミというのは、難しいというのか幅が広いんです。俗に太鼓打に言われているのは、『刻ミに始まって刻ミに終わる』と。なにも終わらないけどね(笑)」

○金春惣右衛門先生と柿本先生の違いというのはありましたか。

「柿本先生は絶対に舞台では新革は使われなかった。私が新革を使っていると『いい調子だけど新革だなあ』と。

(金春)先生の時代から流儀の調子が変わってきたように思います。それまで基本的には観世流の太鼓の方が高い調子がお好みだったかな。

先生も素晴らしい老皮をお使いでしたけど、そればっかり使うわけにもいかないし。」

 

囃子科協議会と養成会の昔

○囃子科協議会の昔のことをお聞きしたいんですが。

「第一回の番組がありました。最初に挨拶文がある。」

○『生活保障制度の確立』とあります。

「そうそう。最初はね、玄人会の前に素人会をやっていたんですよ。それこそ資金集めに。

ボヤキ節になりますが、染井能楽堂でやっていた頃の番組の発送や何かは、全部私がやってたんです。嫌になったと日記に書いてある(笑)

第一回は観世宗家の『高砂 流シ八頭 八段之舞』。番組は安福春雄先生だけど、お具合が悪くて亀井俊雄先生がなさったんですよ。

最初の頃の大きな出来事は第六回(昭和32年9月18日)に粟谷益二郎さんが烏頭の後シテで倒れて亡くなったことです。(粟谷)菊生さんが後見だったけど、シテを抱えて楽屋へ入ったから、その頃喜多流にいた観世栄夫さんが地謡から立って後を繋いだんです。だから楽屋は騒然としていたけど、能は粛然と行われました。

今みたいに救急車ないから。私が世話になっていた診療所に電話して、舌がもつれてね。で、なかなか来ない。そのもどかしさね。やっと医者が来てくれて、楽屋が薄暗い中いろいろ手を尽くしたけど、ガーッと口をあけて大往生だと。菊生さんが「駄目か」、その表情が印象的だったと日記に書いています。そういう体験はその時だけですね。」

○別会も一度ありますね。

「そうなんです。ただ、土曜日にしてますね。水曜日にこだわっているわけではない。

年四回はやっていますけどね。ただ何月かはあまり決まっていません。」

○昭和33年に本田光洋先生の舞囃子『猩々』がありますが、お若い方も出ていますね。

「養成会関係でしょうね。お相手をしているのは若手じゃないかな。(一噌庸二・亀井俊一・安福建雄・三島元太郎)」

○友枝昭世先生も昭和33年に巻絹の囃子で出て頂いています。

「僕らは十番会に出ていたんでね。喜多実先生が監督する稽古会で、毎月やっていた。

十人いたんです、喜多十傑。」

○北村治先生は、当時の若手では早くから協議会の公演に出ていますが。

「あの人は養成会に入っていないんです。いささかエリートなんだ。

住駒昭弘さんも途中から入って早めに出られた。養成会には最初から最後まではいなかった。」

○養成会の一期二期というのは入られた時期によるんでしょうか。

「あまり厳密ではなくてね、太鼓で私が一期とすれば、松本章が二期。

最初からいたのは亀井俊一・亀井忠雄・一噌庸二・一噌仙幸、寺井三千丸(現・久八郎)鵜澤速雄・敷村(鉄雄)と宮増(純三=観世豊純)兄弟・幸義太郎(現・清次郎)・小早川立夫(幸正悟)・安福建雄・大倉三忠。何年か後に、九州から柿原崇志が乗り込んできた。

敷村さんが養成会で一番年上だったな。あの方は宝生流の謡が上手かったよ。僕らが宝生流の謡を習っていた頃、全部彼がリードしてました。

先生は高橋進、野口禄久。観世流は武田太加志、岡久雄。僕らは両方習ってました。

先生方が染井に来てくれたんだ。ありがたいことでした。」

 

宝生流の方々

○先生の太鼓のお稽古の時に、高橋進先生のお話を伺ったことがあります。

「北陸で砧の能をお相手させて頂いたときに、『三瀬川~』のところを何べんも謡ってくださってね。親切な方でした。

一曲やるたびに何か一言、ただし『元ちゃん、今日の獅子はよかったよ。だけど、先代の露はよかったなあ』とかいう風に(笑)。

普段はダジャレばっかり仰ってね。(六世)野村万蔵先生と二人でダジャレの応酬をなさってました、しょっちゅう。俳句もお上手でしたよ。」

○高橋進先生が特別ご親切だったんでしょうか。

「そうですね。田中幾之助先生は、乱能で杜若の太鼓を打たれるのにわざわざ若輩のところに稽古に来られて、『私は先代にこういう風に習いました。』と、逆に教えられた。いろんなことを言ってくださったなあ。

あと三川泉さん、あの方はとにかく野口(兼資)先生なんです。『胸をやさしく』と野口先生に言われたとか。

あの方の独特の言い方で『太鼓は背中が見えなくちゃいけないよ』とも仰ってました。

腹に力を入れる、というのはおかしいんだよなあ、今でもしょっちゅう言ってますけど。」

○三川先生を偲ぶ会でスピーチをされていましたね。

「ええ、しょっちゅうスキーにご一緒してね。

宝生閑さんが、酒を飲んで『だから宝生は駄目なんだ。』なんて盛んに言いたいことを言って、三川さんはただ聞いていて、言った方が先にガーッと寝ちゃう(笑)。

○宝生流とのお付き合いが多かったんですね。

「私個人の場合ですが、宝生流で育ったみたいなものです。

その頃、囃子方の規範は宝生流だった、というのはありますね。

それに、私がなんと言っても大きな影響を受けたのは観世寿夫先生ですよ。」

 

2019年7月24日収録

聞き手 田邊恭資 大村華由

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○観劇サイト「カンフェティ」チケットセンター

http://confetti-web.com/

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